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失われた足跡 ⑤

last update Last Updated: 2025-03-23 11:07:06

 リノアは木箱とスカーフを手に空き地を後にした。木々の隙間から漏れる夕陽が木箱に淡い光を投げかけ、表面に刻まれた細かな模様を浮かび上がらせる。それはまるで誰かが忘れ去った秘密の鍵のように見えた。

 森の小径を戻る足取りは重く、頭の中はシオンの言葉でいっぱいだった。

「『龍の涙』は自然の均衡を保つ力を持つ。だが使い方を誤れば破壊を招く。その涙は救いか、裁きか」

 昨日、薬草採取で森を歩いたときの異変……。森の水が減り、草が乾いて萎れていた。あの不自然な静けさ──鳥のさえずりさえ途絶え、森が息を潜めているようだった。シオンの文字に込められていた焦りは、そこから来ているのかもしれない。

 幼い日に母が姿を消し、そして今、シオンが亡くなった。私はついに天涯孤独の身となってしまった。

 森の奥で母が私に微笑みかけた、あの優しい笑顔。そして木漏れ陽の中、手を差し伸べてくれた温もりが今も胸の奥に焼きついている。母の声が遠くから聞こえるようだ。「リノア、大丈夫だよ」と。

 シオンはいつも森で動植物を観察していた。陽が沈むまで土に触れ、葉の形をなぞりながら静かに微笑み、一つ一つ丁寧にスケッチを描いていたシオン。

 村のために何かをしようと夜遅くまで灯りの下で目を輝かせていた。疲れも見せずにノートに想いを刻んでいたあの姿が思い起こされる。

「シオン……。何が起こってるの?」

 自然の異変とリノアの断片的な記憶が糸を手繰るように絡み合う。リノアの呟きは風に攫われ、森の奥へと消えた。

 シオンの意図は、まだ掴めない。だが、この種子がただの物ではないことだけは確かだ。

 私にはシオンほどの知識はない。それでも、私にも何かできることがあるのではないか。シオンが遺した言葉。そして龍の涙──それらに込められた想いを解き明かさなければならない。

 夕陽が木々を血のように赤く染め、霧が徐々に薄れていく。葉の変色が一層目立ち、乾燥した草がその光景をさらに際立たせる。

 やはり森は弱っている。

 エレナに会おう。シオンの研究ノートを読めば、真相に辿り着く手がかりが見つかるかもしれない。

 村の外れに近づく頃、夕陽が地平線に沈みかけ、茜色の光が森の輪郭を柔らかく縁取っていた。遠くで村の灯りが揺らめき、子供たちの笑い声が風に乗って届く。それは平和な響きだった。しかしリノアの胸には別の音が鳴り響いていた。

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